自己愛性パーソナリティ障害は治るのか?自覚できるかが鍵

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自己愛性パーソナリティ障害は、一般的には「治らない」と言われています。
それは、自分にとってのネガティブな評価は受け取ることが出来ないという障害の特性によるものです。

ただ、たまに自己愛性パーソナリティ障害を治した、という人はいます。
ですので、自分が自己愛性パーソナリティ障害である、ということを認識して治療に励むことができる人は治せる可能性があるのでしょう。

自己愛性パーソナリティ障害の程度問題

自己愛性パーソナリティ障害とひとくちに言っても、ひどい場合とひどくない場合があると感じます。自閉症も「スペクトラム」ですから、グラデーションのようにその重症度は異なります。

逆恨みなどの面倒ごとを避け、あえて診断しない選択をとる医師がいるというのはこの「程度が深刻な場合」に該当するのでしょう。他害への依存や投影性同一視が深刻なケースでは、自分のネガティブな情報は受け入れること自体が困難です。

少なくとも「治った」と言う人は「医師が診断を伝えられる状態にあった」「その診断を受けいられる状態にあった」ということになります。

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「自己愛性パーソナリティ障害が治った」というケース

私は医者ではありませんので、ツイッターの発信では、「自己愛性パーソナリティ障害の思考・行動パターンの傾向を持った人」のことを自己愛者と呼んでいます。

自己愛性パーソナリティ障害の被害にあった人も自尊感情の傷つきにより自己愛傾向が強くなることがあります。自覚が可能な軽度であればこそ診断を伝えやすいという背景もありますので、こういった被害者が自己愛化した場合の方がむしろ「自己愛性パーソナリティ障害」として診断される対象になりやすいのかもしれません。

すると、「自己愛性パーソナリティ障害が治った」と発信する人がそこそこ存在するというのも頷けます。

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私のケース

私自身、自身がいじめの被害の後遺症を引きずりながら家庭内暴力に遭っていた頃は今思い返すとおかしかったですし、自己愛性パーソナリティ障害だったのではないかと思っています。

無価値感と共に「自分の価値を証明する必要がある」と感じていましたし(自覚あり)、ワーカーホリックのようにがむしゃらに何らかの役割に没頭し、「正しさ」を振りかざしていました。また、自分よりも優れている特技が無い人を心の中で見下してもいました。典型的なパワハラタイプですね。リーダー的な役割を担うことが多かったですが、実際怖がられてもいました。そして、自分の失敗を謝るような場面では強い恐怖感に支配されて死にたくなるような感覚を伴う状態でした。実際、「あなたが悪い」と言われるようなことがあると帰ってから自傷行為をすることもありました(人前ではしない)。

その後、過労気味で「すごい人」としていられるようにいくら頑張っても、「あなたは私たちとは違うから」と一線をひかれたような距離感ができてしまい、自分が望むような人間関係を得られないことを学習した私は、何をどのようにすればよいのかわからなくなり長らくターゲットにばかりなる生活を何年も続けます。

簡潔に言うと、支配する側では上手くいかないと学習して、支配される側になった、ということですね。生まれ育った家庭の人間関係が異常でしたから、そもそも健全な人間関係を知らなかったのです。

その後、幸運にも健全な人間関係を学習する機会に恵まれて、現在は無価値感などに苛まれることもなくなりました。

こういった過去を踏まえれば、私も「自己愛性パーソナリティ障害が治った」一例であると言えるでしょう。

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鍵となるのは「自覚できるかどうか」

生粋の自己愛性パーソナリティ障害は、防衛機制が病的です。

まず無価値感を自覚すること自体から逃避しているようで、自分の価値について不安に感じるようなシーンの記憶が無くなります。

少なくとも、私自身は記憶がなくなるというのはありませんでした。自分がやらかしてきた他人に対するひどく傲慢な態度や高圧的な態度も、今もはっきり覚えていますし、申し訳なかったと思っています。後からどうにも気になって謝ったこともありました。当時は頭に血が上っていてコントロール出来なかったことですが、きちんと記憶はあります。

ところが、重度の自己愛性パーソナリティ障害の場合、まずそういったことを自分で認めることが出来ないんですね。

今まで関わってきたホンモノは、例にもれず記憶が歪みます。都合の悪い記憶は忘れてしまいますし、都合よく書き換えられてしまうんですね。

また、おそらく軽度であった私には「自分の無価値感を埋めたい」という自覚がありましたし、「恥」に対する罪悪感は持っていました。

ところが、重度の人たちに共通するのは、記憶が歪むなどに特徴づけられますが、「恥」そのものを認識しないという防衛機制が働きます。

行動や思考を矯正していく過程において、そもそも自覚できるかどうかということはとても重要です。認知の歪みは、自分の認知は歪んでいると自覚できるから修正することが可能です。

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当時の自分の傲慢な態度を思えば人のことを言えた義理ではないのですが、自己愛性パーソナリティ障害の中でも、より重度で病的な人が本格的なモラルハラスメントを行うように思います。少なくとも「恥」を認識できる人間は、記憶をいじったりしないのでそこまで常軌を逸したことはできないのではないか、と個人的には思います。

自己愛性パーソナリティ障害は、ショックを受けて混乱しているような状態では自覚が困難です。

ただ、私自身が改善してきた流れとして、自分の無価値感を癒やすことが確実に回復の手助けになりました。治せるぐらいの軽度の自己愛性パーソナリティ障害は、自分の人間関係が上手く行かないことも、自分が寂しいということも、自分がどこか欠陥人間なのではないかということも自覚しています。自覚できているのでれば、本人にある無価値感への対処が治療には有効だと思います。

重度の自己愛性パーソナリティ障害は、「恥」の自己処理が不可能なため、恥の投げ下ろし先の他者を常に必要とします。そのためにターゲットを見つけ、ターゲットをゴミ箱にします。

もし身近な人が自己愛性パーソナリティ障害かなと思ったら、その人にとっての都合の良い記憶の改竄があった場合の治療は難しいと思った方がいいでしょう。もし、記憶の改竄がなければ、その人自身の無価値感とその背景にその人自身が向き合うことで、認知のゆがみを少しずつ修正していくことができる可能性があると、自身の経験をふまえて思います。

※注意喚起として。「あなたは自己愛性パーソナリティ障害だ」と本人には言わない方が良いです。ハラスメント被害の危険が高まります。

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加害者は元被害者

被害を受けたからといってみんなが加害者になるわけではありませんが、加害者は元被害者です。加害することをどこかで学んでいます。

被害者の方には自分の人生を生きていっていただきたいです。加害者を恨んでいいです。自分のために戦っていいです。ただ、加害者がかつての被害者であったという仕組みだけ、どこかで覚えていてもらいたいなと個人的には思います。

私の兄もおそらく自己愛性パーソナリティ障害です。兄については明らかに悪意のある嫌がらせを私に執拗に繰り返していたので、かなり厄介な部類だと思います。そして私の父も凝り固まった価値観で人を支配する、昔ながらのパワハラタイプです。(私もそうでしたが)

父は子供たちに支配的で過干渉でしたし、兄は妹である私に何年も精神的暴力をふるい続けました。そしてそれを「兄は病気だからしょうがない」と両親達は傍観していました。妹がいつか殺されるかもしれないとすら思いながら。

私にとって家庭は暖かいものではありませんでしたし、大学卒業後すぐに私は家を出ました。兄は何十年もひきこもりです。いつか孤独死した遺体をめぐって私に連絡がくるでしょう。

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父の育ちも過干渉でした。病と貧困があり職業の選択の自由はありませんでした。母の育ちはいわゆるきょうだい児という育ちでした。父親はいわゆるエリートとして「正しさ」に邁進するワーカーホリック。母親は共依存傾向です。

赤子であった兄の夜泣きに「うるさい!!」と父は声を荒げ、母親がワンオペして育児していた、私が生まれる前はそんな様子だったようです。

自分の正しさを疑わない夫に加え、実家も遠い、知らない土地でワンオペ…という状況だった母親には余裕が無かったのであろうことは今ならわかります。

「やさしいお兄ちゃんとして私の面倒をみていた兄」は、私を下に置いておくことでどこか自分を保っていたのだと思います。叩く、容姿や趣味ややったことを貶して泣かせる、といったいびりは幼少期から通常でしたが、「そうしてしまう子どもの心理」を大人になった今考えると、だいぶ年齢が低い時点から歪んでいたと思います。

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暴力・支配・虐待は、元被害者が次の加害者と被害者になることが多いです。

加害することを覚え、加害することのメリットを知ったら加害者になるでしょう。加害することのメリットを感じず被加害されることにとどまる人は被害者になるでしょう。

健全な自己肯定感、健全な人権意識、健康的な人間関係、そういったものはそれが学習できて初めて身につけることができるものです。

それを知らないということは、それを知ることができる環境に生きていなかったということを示しています。戦争中などはそんなものは無かったでしょうし、平和になった今だからそれらが「あって然るべきだ」と言われています。

私はブログを通して、健康的な人間関係を学ぶ一助になればと思い情報を発信しています。

あなたが幸せに生きること、そしてなるべく多くの人が慈愛に満ちた人との関係を作れるようになることを望んでいます。それは私はもう二度とあんな思いはしたくないし、してもらいたくないからです。

もしこの記事に書いてあることが少しでも読者様の人生のプラスになったのでしたら、こういった気持ちを世の中に広げていっていただければと思います。

自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)が行うモラルハラスメントでは、加害者と被害者の間に一体何が起こっているのかを図解にしてみました。
今となっては当時キツく当たっていた人達には本当に申し訳ないのですが、私がかつて自己愛性人格障害的な行動をとっていた時のことと、それから今現在に至る回復の過程を書いていきたいと思います。いじめ…自己愛被害で破壊された自尊心 私はいじめに遭ったのをきっかけに、自尊心や心のパウンダリー(
自己愛性人格障害の被害に遭うと被害者までもが自己愛性人格障害にような行動パターンをとるようになってしまう。という現象が実際にあります。 ただ、根本的には人格障害のグレーゾーンになる、といった方がいいのではないかと個人的には思います。本物の自己愛性人格障害の人間には、良心の呵責や

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コメント

  1. さこ より:

    ありがとうございます。とても力づけられました。

    優しくて大好きだったけど、ものすごく馬鹿だと思われてるのが駄々洩れの友人に
    嫌われるように、天然を装ってマウント3倍返しを重ねて縁を切ってもらった(自分から距離を置くことができなかった)ことがあるのですが、こちらのブログの記事を読んでいくと、
    その人のに自己愛の特徴がいくつも当てはまるのが、驚愕でした。
    その後できた友人も、両親も自己愛だったと思います。
    記憶の改ざん、理解できない!どうして?と思ってましたが・・。

    私は私で、裏面というか「自分だけがダメ」という自己愛です。
    ただ、裏面でも何かの拍子に表面(一般的自己愛)にひっくり返る可能性があると
    これまでの付き合いから、考えています。

    私は自己愛は腋臭と同じようなものではないかと思います。
    完全には治せなかったとしても 自覚することで少しはましになるように
    できると思うのです。

    • kinimini より:

      自己愛性パーソナリティ障害の被害にあった人が自己愛性パーソナリティ障害のようになることはめずらしくありません。
      それはガスライティングや投影の影響によって自分がそうだと思い込み、そのように振る舞ってしまうことと、自尊感情が傷つくことで無価値感から自己愛性パーソナリティ障害のように「価値」を得ようとしてしまうからです。
      ですが、自己愛性パーソナリティ障害は基本的に自覚することが困難な障害ですので、自分がそうなのではないか?という思いをお持ちの場合、あくまで自己愛性パーソナリティ障害の傾向を持つことはあっても、人の痛みもわかりますし、恥の感情を自分で感じることもありますので、不適切な人間関係から離れて癒やされることで治っていくと思います。

      応援しています!

  2. りんごの木 より:

    私自身はかつて自己愛性パーソナリティ障害でした。そのことを認識し、自分は「治った」と思っていました。しかし、今度はタゲられ、ようやく相手とも離れられましたが、いつも無気力で疲れもとれず、やる気も湧かず、正直、なぜ生きているのか分からず悶々とした日々を送っていました。しかし、今日、この記事を読み、全て自分のことだと気づき涙が溢れました。

    ・無価値感と共に「自分の価値を証明する必要がある」と感じていた

    ・自分の失敗を謝るような場面では強い恐怖感に支配されて死にたくなるような感覚を伴う状態

    ・過労気味で「すごい人」としていられるようにいくら頑張っても、「あなたは私たちとは違うから」と一線をひかれたような距離感ができてしまい、自分が望むような人間関係を得られない

    自分はまだ「軽度の自己愛性パーソナリティ障害」だったんですね。特に「無価値感」は、自分でも気づかなかったです。無意識に「自分には何の価値もない」と本当に思い込んでいました。だから、タゲられた相手から離れても家族や自分の周りの人に色んなことを自分を犧牲にしてやってきました。「何もそこまでしなくてもいいのに」と分かっているのに、自分を犠牲にすることがどうしても止められなかったんです。正に「強迫観念」のようにやり続けていました。だけど、自分は「無価値でないことを証明するために必死だった」んですね。これに気づけたことで、大げさと言われるかもしれませんが生きる力が湧いてきました。これからはもっと自分のことを労り、大切にしていきたいと思います。naruさん、大切なことに気づかせてくださり本当にありがとうございました。

    自己愛性パーソナリティ障害に苦しんでいる方々がこのブログを通じて少しでも前向きになれますように。