自己愛者との会話が歪むのはあるあるです。
言った言わない、やったやらない、の水掛け論や記憶の改竄もあるあるです。
どうしてそうなってしまうのでしょうか。
都合の悪いことは認識しない
自己愛者との会話で感じる「話の通じないストレス」は、その独特の認知に由来します。
自己愛者の認知を図解にするとこんな感じです。
あらゆる情報がこのフィルターを通して処理されます。
自己愛者は恥の感情を自己処理できないため、このフィルターを通すことで自分を守ります。
恥の感情を自己処理できない、とはつまりどういことかというと「自分の行いを恥じて反省することができない」ということです。
それは外部からの情報だけではなく、自分の情報も同様です。
外部からの情報…他者からの指摘、劣等感を刺激される出来事、など。
内部からの情報…他者への嫉妬、自分のよくない行い、など。
これらの情報から都合の良い情報だけが認識され、そうでないものは「自分のものではなくなります」
「おまえのせい」
自己愛者が受け取らなかったものは、存在自体がなかったものとなる場合と、誰かのものと脳内変換される場合があります。
存在自体がなかったものになる場合は、その情報が存在したこと自体が不都合な事実である場合が多く、また誰かのものと脳内変換される場合は、自分由来の不快なものが多いです。
確実にあったはずの出来事を「そんなことなかったよね」としてくるのは、その出来事が自己愛者にとって不都合だったからです。
どういったものが不都合なのか、それは「自己愛者本人が考える自分像を損ねる」ものです。
例)
相対的優位性に拘る自己愛者の目の前で評価されている人物がいると、自己愛者の中には嫉妬心が芽生えます。
しかし自己愛者は自分を守るために、この嫉妬心を自分のものであると認めることができません。
そこで嫉妬心を自分以外のものである&自分の不快感情の発露は正当なものである、という歪みが必要になります。
そこで投影です。
自分が嫉妬しているのに「嫉妬されてる!」「嫉妬から嫌がらせされてる!」と、事実をひっくり返します。
嫉妬から嫌がらせをしているのは本人ですが、事実をひっくり返しているので、加害者の頭の中では自分は被害者です。
「あいつはこんなことをする劣悪な人間だから制裁を加えるのは当然だ」となります。
DVする人間が殴りながら「殴らされてる」と主張するのと同じです。
自分から殴っているのですが、「被害者であり正当防衛で当然の権利の行使としてやむを得ず殴っている」という設定に変わります。
実際の理由は「加害者本人の思い通りにならなかった」ただそれだけなのに、です。
「話し合えばわかる」は相手がまともなときのみ
どんなに言葉を尽くしても、この手の人に言葉は通じません。
逃げるが勝ちです。
悪気はなかった、話し合えばわかる…そんな言葉を被害者に向かって言ってくる人はいますが、そういった人はこれらの異常人格者について知りません。
あるいは、知っているから生贄としてあなたを捧げ、臭いものに蓋をしようとしているだけです。
心がまともな人なら通常やらないことをやる、これは悪気がどうこうという話では既にないのです。
信頼関係がベースとなるまともな人間関係を築く能力がその相手にはない、という事実に他なりません。
世の中にはそういうヒトがいます。