日本に蔓延るカルト「自己責任努力教」

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現代では遺伝についての研究が進み、努力できるかどうかすら遺伝の影響が少なくないことがわかっています。

日本は努力を賛美し、努力しない人を怠惰だとみなす傾向が強いです。また努力して結果を出せなかった人に対して「自己責任だ」と断罪するのもよく見る光景です。

…が、実は努力できるかどうかすらも遺伝子ガチャの影響…運の要素が関係しているという事実。

努力は「努力できる遺伝子」と「努力できる環境」に恵まれた時にできることのようです。

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努力が我慢になってる人は「許せない」

さて、ここでカチンとくる方がいらっしゃるようです。

少なくとも現状行動遺伝学などでわかってきたただの事実でしかないわけですが「許せない」とでもいうような勢いでそういった方は私の発信を引用して否定してきます。

普段、私の発信を引用する方は色々いらっしゃいます。

その多くは「あ~そうだったんだ!気をつけよう。」「これ知ってる!当てはまる!」「ってかあの人これじゃん…」など、マインドコントロール・洗脳を解くきっかけにしてくださっている方々ですね。

「自分の人生をより快適にしていくため」に引用していらっしゃいます。

しかしこの「許せない人達」は、許せません。

何を?

自分が恵まれている側にされることと、自分は我慢しているのに同じ苦痛を味わっていない(とその人が思う)人を、です。

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根底にある被害者意識

モラハラ被害者体質あるあるの我慢癖についても定期的に発信していますが、この我慢癖について「好きで我慢したんじゃない!」といった内容で引用してきた方がいらっしゃいました。

モラルハラスメントはマインドコントール・洗脳を伴う支配なので、我慢はモラハラ被害の結果として当時子どもであれば尚更より自然にするようになります。

しかし、洗脳が解けてくればやめられます。やめられるからこそ私は我慢癖を手放しましょうと、こういう思考の癖ついてませんか?自分で選択し直した方が生きやすいですよということを発信しています。

ただこういった情報を受け取ったところで、自分で自分の人生に責任をとる準備が整っていなければ拒絶します。当然と言えば当然です。

そしてこの方は続いて、前述のような発信に対しても引用で反発してきました。

泥水をすすって血反吐吐く思いで必死に努力した経験が無い人にはわからない。諸々話にならない、と。

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傲慢を自覚する

この人の必死さで若い頃の自分自身を思い出したのであえて記事にしています。

面倒くさくて本人のことはブロックしてしまいましたが、似たような人は度々あらわれるので、同じような「怒り」を抱えている人は相当数いるのだと思います。

「私は努力したからこれを得た」

若い頃に抱いたこの思いは、自分を肯定するひとつの材料にはなりました。

しかし、散々自己愛者達に絡まれてきて感じたのは、「この人たちは努力することのできる健康なメンタルを持っていないのだな」という事実と、「努力が実力として結実するほどのポテンシャルにも恵まれていないのだな」という事実です。

まだ若かった頃、あまりにしつこく絡まれるので「そんなに~したいのなら〇〇すればいいのに…」と当時の指導者に愚痴をこぼしたところ、(何を言っているのこの子は)という驚いた表情で「そんなことすすめられないでしょ」と言われました。

当時の私は未熟だったので(ついていけなくて身の程を思い知ればいい)と思っての愚痴でしたが、こういうものはただの暴力的思考です。

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特にものを教える立場になれば個人差はより強く感じます。

才能のあるなし、これは残念ながら残酷なまでにあります。全員プロになれるわけではありません。

体育や音楽ならわかりやすいかもしれませんが、勉強でもなんでも、みんながみんな同じようにできるようにはなりません。

努力して得られる成果に露骨な違いがある中で「私は努力したから」というのは非常に傲慢です。また、努力は自己投資ですから「やっても無駄」という意識に支配されている人は努力できません。冒頭の努力できる遺伝子もそうですが、努力できる健康なメンタルも大切です。

そもそも血反吐吐いて必死に努力するって、何のためにそれをやるんでしょうか?

それ、やる必要あります?

ここが私とその人の大きな違いだと感じました。

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何を求めているのか?

そもそも努力って自分のためにするものです。

欲しいものを得るための努力は誰かに強いられたものではありません。時に自分で自分に強いるものであり、手に入れた結果を振りかざしながら「私は血反吐吐いて努力したんだ!」なんて被害者意識チラつかせて外に向かって言うのは恥ずかしいことです。

自分が好きでやったことです。そして、努力できる恵まれた環境にいたということです。

病気の家族や障害児・障害者のケア労働に追われていた人は「努力した」なんて言いません。「苦労した」ですから。

自分が好きでやったことだと思えていないから被害者意識が先に立つのでしょう。

「我慢させられた」「(望んでいないけど)努力した」

これでは自分の人生を生きていません。

自分の人生を生きている人はわざわざ他者に自分と同じであれと強いません。

バウンダリーがおかしいのは本来まず先に救うべき自分のことを救えていないからです。

自分が何に幸せを感じるかもわかっていないから、「自分はすごいんだぞ」「すごい自分になるために我慢して努力したんだぞ」とやるのでしょう。

そもそも健康な人はすごい自分になるために生きていません。

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おわりに

説教くさくなりました。

努力して結果を手に入れられなかった人を自己責任だと断罪する思想はもともと、「価値の高い人間であれ」というメッセージをたくさん浴びながら日本人が生活していることに由来するのだと思います。

個人の幸せをはじめとする内的価値よりも、役に立つかどうかという外的価値を重視する教育システムなど、この歪みが日本人の自己肯定感がやたら低い原因だと思っています。

この件についてはこちらで書いていますが、

人間関係の問題にぶち当たった時、だいたいどこにも書いてある「自分を大切にしましょう」という言葉。「そもそも自分を大切にってなんなんだろう」をまとめました。

もっと自分を大切にする習慣が日本全体に広がることを希望します。

自分を大切にできない人は人のことも大切にできません。

条件付きで存在を肯定している人は、条件に合致しない人を否定します。

条件付きで自分の存在を肯定している人が、その素晴らしい経歴を並べて「私の価値は高いのだ」といくら示していても内側に抱えているその不満・怒りはおさまらないと思います。

自分の幸せが何なのか?に気づけるようになることを願っています。

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