部活動と自己愛性パーソナリティ障害

Pocket

いわゆる強豪校におけるパワハラやいじめというのはよく話題になります。

そこで驚かされるのは、「よくここまでひどいことがまかり通ってきたな」というひどい事案も、ニュースになるまでは何年も、あるいは何十年もそのままだった、という現実。

閉鎖的な空間で独自のルールによって運営された組織では、もはや治外法権とでもいえる状況が作り出されているということがわかります。

Sponsored Link
 

暴力と支配

自己愛者(自己愛性パーソナリティ障害の診断基準を満たすような行動パターンを持つ人※)が支配する空間では、支配のために様々な形の暴力・ハラスメントがおこなわれます。
※医師でないと診断ができないためこのように表記させていただいてます。

以前話題になったお笑い業界でのパシリなどもそうですが、そこに所属している人には明らかな上下関係が存在し、上の人を満足させるために下の人は行動します。また、そうしなければ不利益を被るという仕組みができあがっています。「立場を利用して人間関係から除外して仕事をなくす」などの制裁をチラつかせることもありますね。

規模が小さくなれば家庭のDV・モラハラもそうです。「言うことを聞かなければ身体的・精神的暴力を振るう」のがよくあるパターンです。

そしてこれらはまさに部活動で起こっていることも同じです。

Sponsored Link
 

支配の先にある「栄光」

自己愛者は自己陶酔できるモノを欲します。

賞などの輝かしい経歴、チヤホヤされるもの、人よりも優位に立っている感覚、そういったものからエネルギーを得ています。

自己愛者は健康的な自己愛を持っておらず、無価値感を見なかったことにしてエゴを養うことで生存しようとするためです。勝つか負けるか、これが生きるか死ぬかと結びついているのです。

内的な価値が希薄であり、「自分はこれをしている時に幸せを感じる」といったじんわりと感じる幸福感は不足しています。自己愛者にとって幸せのようなものとして感じられるものが、支配欲を満たしたときや加害欲を満たしたとき、承認欲求を満たしたときの感覚です。感じることのできない愛情の代替品としてこれらの欲を満たそうとします。

「いつも勝っていないといけない」「勝つためならなんでもする」「負けることは許されない」「負けなど認めない」のです。
前述の通り、自己愛者にとってはこういった感覚は自分の生存理由や存在価値と結び付けているため、この感覚には抗いがたい感覚を伴うようです。

そういった問題を抱えた自己愛者にとって、人に注目される「賞」はとても魅力的なものとなります。

また、自己愛者は人を支配しやすい、優位な立場になりやすい職業を好みます。
本来教育は個を適切に支援する職業であるべきですが、支配者タイプの自己愛者が少なくないことも部活問題のひとつです。世代が上であればなおさらです。

Sponsored Link
 

自己愛が不健康になるように調教する

さて、ここまでは自己愛的な指導者がどうしてそういうことをしてしまうのか?について解説しました。

ではなぜ、このあきらかにまともではない指導をする者の治外法権が維持されてしまうのでしょうか?

これは今までもブログでモラルハラスメントの手口として解説していますが、自己愛者は洗脳・マインドコントロールを施すことによって所属する人間を集団ナルシシズムに染め上げていくからです。

「何を感じたか」などの個人的な感覚や内的価値をぞんざいに扱い、情報の遮断・様々な形態の暴力によって恐怖を植え付けて思想を誘導し、外的価値の価値を強調して依存させ、自己愛傾向を強くするように仕向けます。

これによって指導者だけでなく、生徒までも自己愛傾向が強くなり、「栄光」のためにならなんだってありの奴隷のような人間が育成されます。

「ルールを破った人間を吊るし上げる・集団リンチを加える」、こういった行為は支配者が奴隷を上手く支配するためによく用いた手法です。歯向かった時どうなるのか?をまざまざと見せ付けられた奴隷は、支配者に対して従順になります。

こうしてよく躾けられた奴隷たちは、奴隷同士が相互監視の機能を持ち、制裁を加えながら(ストレスを発散しながら)やりすごし、外的価値の獲得に向けてカルト的結束力をもつことによって、支配者にとっても都合のよい集団になります。

Sponsored Link
 

神と教祖と信者の関係

さて、こうなるともうここは独自のルールで動くカルト集団と変わりません。

外部の人間からは「よくここまでひどいことがまかり通ってきたな」と感じるような事柄ですら、集団の中では当たり前の日常になります。

虐待・DVモラハラ家庭で行われていることを外部の人間が聞いたらドン引きするのはあるあるですが、規模は違っても同じことが起こっています。コミュニティの規模に関わらず、自己愛者が支配した集団は洗脳・マインドコントロールによって支配者と被支配者が生まれ、またその支配構造を支える信仰が所属する人達に強い影響を与えます。

特別強い部活動でなくとも、競技の強さが人権と結びついているような部活自体、そこまで珍しくないのことは体育会系部活動の実態を知る人なら特に心当たりがあるのではないでしょうか。

勝つことにこそ価値があるという信仰は、強い人間と弱い人間に人としての価値に差があるかのような感覚を植え付けます。強い人間のエゴを肥大化させるだけでなく、弱い人間には劣等感を植え付け、両者ともその歪んだ人格は他の人間関係にまで悪影響を及ぼします。

Sponsored Link
 

歪んだ人格のその後

これから書くことはとある強豪校出身だった人のその後です。

中学時代、団体として全国レベルの成績を残してきたある人は、自分は強豪校出身であるということに誇りをもっていました。しかし所詮中学校の部活動ですからプロではありません。プロになるための訓練は受けていませんでした。

しかし、「自分は特別」という意識が抜けず、拗れに拗れていました。

二十歳過ぎても、同い年のプロに「自分と変わらないのに贔屓されてる」「運が良かっただけ」などとのたまい嫌がらせをし。その人のプロ活動をマネしようとしては独自のわけのわからないことをし、三十路を超えても「プロ」というものに異常に執着して関わる団体関わる団体でトラブルを起こしていました。

過去の栄光で肥大化した自己愛によって現実を受け入れられず、他害的になった例です。

この人の中にはそれそのものを楽しむというのはありません。練習ですら苦痛を伴う様子で、こんなに苦労しているのだから報われるべきとでもいう態度でした。しかし、その練習量ですら、プロのそれとは比較にならないお粗末なものでした。この人はただ「認められたかった」のです。

「それができる自分は優れていて価値がある」と思い込むようになった先、「それができる自分」を失った時どうなるのでしょう。この人は数十年に渡りそれを頑なに認めないことで自分を守っていました。

Sponsored Link

中学生という多感な時期におかしな指導者によって狂わされた部員は、一人だけがこうなったのではありません。知ってるだけで4人は同じような症状を呈していました。

マウンティング・ディスり・嫌がらせ・いじめが当たり前なのです。そこの卒業生でグループになって、よそから来た人を見下してイビっていました。その人が評価されていようものならもう必死です。

相手が中学生だったこともあり問題が表面化するのにそこまで時間がかからず、後にこの指導者は問題視されて外されました。しかしそれまでに数十人の中学生が、思春期の不安定な時期の有害な指導によって人格形成に大きな悪影響を残しました。

以上のような例を見ていたので、特に人格形成に強い影響をおよぼす年代に「勝つため」といった意識で競技に取り組むのはよくないと私個人は考えています。

「それ自体が楽しい」、こういった内的価値を育むことがその後の人生を豊かにします。

自己愛者が増えることは、資本主義社会における支配者にとっては都合がいいので、そういうシステムをむしろ推進しようとする空気があるような気がします。不必要なものを必要だと錯覚すると物は売れます。依存的な人が多い方が儲かる人がいます。

大切なことを忘れるように仕向けられている、何かに依存するように仕向けられている…こういったことに気づく人が増えることを祈ります。

社会問題としての視点から、自己愛性パーソナリティ障害と集団ナルシシズムと優生思想についてこちらの記事でも書いていますので、もしよろしければご覧になってみてください。

自己愛者がいるコミュニティ、また、自己愛者が影響力を持ったコミュニティでは集団ナルシシズムが形成されます。そこは一種の「自分たちは特別である」という思想によってまとまり、信仰を持った宗教のようになります。

Sponsored Link