優生思想=自己愛者の思想
自己愛者は差別主義者です。
なぜなら「自分は特別」「自分は優越した存在」だからです。
自分以外のものを差別することにより、自分は対象よりも上だと思い込み、自己陶酔的な欲求を満たします。そうせずにはいられません。
自己愛者がいるコミュニティ、また、自己愛者が影響力を持ったコミュニティでは集団ナルシシズムが形成されます。そこは一種の「自分たちは特別である」という思想によってまとまり、信仰を持った宗教のようになります。
このような「価値のある人間」と「価値の無い人間」を分ける優生思想は、ナチスを思い浮かべていていただけれるとよくおわかりになると思います。
人権の大切さが叫ばれるようになった社会では、「ナチスのやったことはひどいことだ」という認識が存在します。実際、ドイツは強烈な反省をもってナチスを否定しています。
ところが日本では「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という優生保護法が廃止されたのも1996年のことです。また、2016年、津久井やまゆり園で障害者を何人も殺害した人間を支持するする声すらもあがりました。
優生思想を否定しない層がまだ普通にいるのですね。否定しないというよりも支持している、という表現の方が合っているかもしれません。
優生思想を支持するということは、そのこと自体が人権を尊重しないという思想を国民自身が支持しているということです。
支配する側に都合のいい価値観が幅を利かせる~支配者と奴隷
日本は人権意識が低いです。
敗戦の反省についても、ドイツのように国民が反省することなく、「私たちは騙された被害者」だと認識しているため、憲法で人権を与えられてもその価値がわかっていません。
集団ナルシシズムが支配する社会では優生思想が基本となりますので、思想の中核となるのは「その時点で優位な立場にいる支配者層にとって都合のいい尺度でジャッジされた価値」によって人間を選別し、価値のないものに人権はなくていい、とするものです。
自己愛者の人間関係は支配と被支配、上下関係です。
互いが能力に応じて責任を負い、リスペクトを持ちながら補い合う関係を形成することはできません。「自分は特別な存在」が根底にあるため、リスペクトは存在しません。ただひたすら都合の良い存在であれ、ということのみです。
したがって、
能力の低い人間=生産性が低いから価値が無い
怒鳴って「指導」してたら精神疾患になった人間=弱いから価値が無い
セクハラしたら過呼吸起こすようになった人間=弱いから価値が無い
プライベートを削って努力しない人間=忠誠心・向上心が足りないから価値が無い
職場で妊娠した女=生産性が落ちる・休んで穴をあけるから価値が無い
育休とる人間=賃労働をしないから・仕事のしわ寄せがくるから価値が無い
といったブラックな思想が受け入れられてしまいます。
人間の価値は支配者によって決められ、その決められた価値に沿うように奴隷は自分をより優秀な奴隷となることで適応しようとします。
また、土台は優生思想、自己愛者的価値観のため、奴隷自身が「自分は特別」ないし「自分は価値が高い方である」と思い込む・思い込もうし、低い人権意識も相まって自分よりも価値が低い奴隷をたたくことで自分の優位性を確認して安心する心理も働きます。
執拗に特定の属性の人を加害したり、「弱者は自己責任だ」とする論もそうですね。
こうして「自分たちはこいつらよりも上である」というマウンティングや加害を目的とした弱者叩きや見下しをすることで、それが全体への見せしめの効果をも発揮し、この支配体制は維持・強化しやすくなります。
人を人扱いせずに実現の難しい要求をする
自己愛者は相手が一人の人間だという意識がありませんので、「搾取できるだけ搾取したい」というその欲から同時には成立することが難しい要求をします。
労働時間を決めたのも「働かせる側」です。江戸時代の日本人はそんなに長い時間働いていませんでした。それでも社会は回っていたのです。
集団ナルシシズムが幅を利かせる現代では、男性にはホモソーシャルな階層社会の中で「とにかく働け」というメッセージが送られ、一方で女性には「(男よりでしゃばらないで)低賃金で働け」というメッセージと、「子どもを産め」&「無償労働も今までどおりやれ」といったメッセージが発信されています(無論、家庭や地域による格差はあります)。
優勢思想が受け入れられる社会では、人権を軽視し、人をランクづけすることで「嫉妬」「恐れ」「恥」などにより人をコントロールします。
本来人権の観点からすればセーフティーネットは人間として当然の権利であるにも関わらず、優生思想にどっぷり染まった人は、セーフティーネットを「いざとなったら安心できるもの」としてみるのではなく、人間の最下層のような認識をします。
日本は人権があるにもかかわらず、奴隷として適応した思想が受け入れられてしまっているため人権をちゃんと理解していないのです。
奴隷として適応した日本人は、支配者層にとって都合の良い価値観を前提として互いを干渉し合います。そしてそれらの作り出す「空気」によってまた不自由になるのです。
集団ナルシシズムの「空気」
戦争の時は「そういう空気だった」という証言がなされます。ナチスも熱狂的な支持がありました。
集団ナルシシズムに染まる、ということは宗教のようになるということです。
学級内で起こるいじめを体験した人は多いでしょう。
あれは集団ナルシシズムの小規模なパターンです。
支配者であるいじめっ子は自分を頂点として階層を作ります。そして、その中で下位のものを自分に都合よくコントロールします。コントロールの仕方は脅しや無視や嫌がらせなど様々ですが、そこに不均衡な力関係の差を作り出すことによってその支配関係を構築していきます。
人に暴力を振るう様子を前に、優越感や自己陶酔を得たい欲求から加害する側に回る人間がおり、一方で不快感を覚えても「逆らえない空気」によって、傍観者(容認者)になる人間がいます。
そして、逆らった者の人権ははく奪されます。(見せしめ)
これは今の世の中の縮図です。
ヒトラーを選んだことについて反省するドイツと、「こいつらのせいだった」とした日本では、この「空気」に対する責任感に大きな違いがあります。
そしてこの「空気」に対する責任を持つ、ということがそのまま人権のある社会を築けるかどうかに大きな影響を及ぼします。
集団ナルシシズムは宗教的空気を作っていく事で、支配者と奴隷をつくっていきます。
要は思想による支配です。旧統一教会もそうですが、搾取する人間は支配者にとって都合のいい思想で対象を洗脳することで利益を搾取します。
思想によって人を支配することが可能なわけですね。
日本人を奴隷化・日本を植民地にすることを目的として来日してきた人間も「宣教師」でした。宗教とは都合の良い思想で洗脳するために非常に都合の良いツールなのです。
「空気」に異を唱えるということは、自己愛者的な思想、優生思想にNOを言うことです。
政治についての発言がしにくい世の中、というのもまさにこの「空気」によって我々が行動を制限されていることの表れでしょう。
いじめっ子にNOを言える「空気」、言えない「空気」、「空気」とは一体何なのでしょうか?
おかしいことをおかしいと言えない世の中に人権はありません。
民主主義が不断の努力によって維持されるというのは、権力を見張り、おかしいことをおかしいと言うことができなければ維持することができないからです。
宗教とは存在しないものを信じることです。
何を信じるのか、信仰によって現実が変わるということです。
人権の概念は昔は存在しませんでした。
筆者は例えるのならば、相互にリスペクトのある人権の思想が世の中に浸透した、人権教をみんなが信じた世の中になってもらいたいです。
コメント
読んでいて目が滑るのですが、
出典を明記しながら書かれたらどうでしょうか?
真面目なことを言いたいようなのに、レポートのような学術的な形式でないので、
この書き方では何も伝わらないと思います。
伝わる人に伝わればいいという趣旨で書いているただの個人ブログですので、より学術的な内容のものが読みたい場合は書籍などを参考にされてください。
全てを載せているわけではありませんが、以下に参考書籍をまとめています。
https://kinimininaru.com/archives/2526