ありのままを愛せない親はありのままを愛せない子どもを育てる
自己愛性パーソナリティ障害が生まれ育つ背景には自己愛性パーソナリティ障害の親がいることが殆どです。そして、自己愛性パーソナリティ障害の被害に頻繁に遭ってしまう「被害者体質」、心理学的には共依存傾向のある人が生まれ育つ環境にも、多くの場合家族に自己愛性パーソナリティ障害がいます。
自己愛性パーソナリティ障害が親になった場合、未熟な人格の持ち主ですから、もちろん子どもにも不適切な関わり方をします。
大人としての役割を果たすことができません。
実は心は幼いままで、それらしく大人のように振る舞っているだけ…という存在ですから、「それらしく大人のように振る舞う」ために自分自身の依存先としたり、自分のコピーとして生きることを子どもに強要します。
条件付きの愛情という名の洗脳と支配
自己愛性パーソナリティ障害は世間一般的に言うところの「毒親」でもあります。
毒親とは、毒になる親。かつてとても話題になったベストセラーの題名ですね(記事下に参考文献としてリンクを貼っておきます)。
自己愛性パーソナリティ障害は自分が無く、空虚な自分をハリボテで繕っている存在ですので、子どもに対しても「一人前にするためには条件をクリアしなければならない」という感覚を持って接します。
子どもはありのままでは愛されません。そもそも自己愛に障害を抱えているのが自己愛性パーソナリティ障害なのですから、愛というものを知りません。
自己愛性パーソナリティ障害は、際限なく肥大して埋まることがない「愛してほしい」という欲求を抱えたままなので、「他人を愛する」という段階まで心理的発達を遂げていないのですね。
ですので、当然子どももありのまま愛することができず、「条件を満たせば賞賛をやる」「条件を満たさないのであれば懲罰を加える」という態度になります。
心理的境界線を引くことが出来ないので、「自分の思う通りになるかどうか」、ということです。
そして、これらの条件は自己愛性パーソナリティ障害独自の視点で決まり、学歴こそ人の価値だと思っていれば学歴に異常な執着をしますし、一方で「思いやり」などに代表されるような心を動機とする行動の条件であればコロコロ変わったりします(「心」は未発達なままなので、自己愛性パーソナリティ障害の「機嫌」がその判断基準となる)。
自己愛性パーソナリティ障害に育てられた子どもは、親と同様に「優越」「価値」「権威」そういったものが自分自身であるべきだと洗脳されます。もちろん、心は空虚なままです。
自己愛性パーソナリティ障害の親は「崖から落として這い上がってきた子どもだけを育てるのが当然」といった価値観を持っています。「社会的な価値」がなければ価値がないからですね。私の父親もそんなことを昔、私が子供の頃に話していました。
共感はなくあるのはジャッジ
自己愛性パーソナリティ障害は心が未発達なので、共感することができません。
子どもは共感を求める生き物なので、何かができれば「見て~」と親に見せて楽しさを共有しようとしますし、「~が楽しかった」「~が悲しかった」という内容の話を親にします。
自己愛性パーソナリティ障害の親はこういった話を聞いたとき、「そうなんだ。それは良かったね!」「それは悲しかったね…。」といった言葉がけをすることは基本的にありません。
基本的に出来事すべては「勝ち負け」「価値があるかないか」そういったものを基準に判断するので、心に起こったことは無視します。
本人がその出来事をどう捉えているのか、どう感じているのか、という点はスルーしつつ、「これはよく描けている」「賞状を貰ってきてすごい」「なんでここだけ成績が4なんだ(全部5が当たり前という意味)」など、そういったジャッジを基準とした言葉がけをしてきます。
子どものニーズを無視し必要なケアを放棄するという虐待
私はかつて集団リンチを受けるレベルのいじめられっ子でした。そのことをふまえ、学校に行きたくないと両親に訴えても「負けるな。勉強で見返してやれ。」と言うだけでした。
自己愛性パーソナリティ障害の親は、子どもに必要な心理的ケアを与えません。
そもそも心理的ケアを与えることのできる能力を持っていません。自分が適切にケアされることを学んでいないからです。
子どもに対して暴力・精神的暴力があっても、自分に都合の悪いことは無かったことにします。「なんとかしてあげたい」と感じる心が育っていません。共感することもできないので、痛みを感じないのですね。ただ、そこにあるのは「勝ち負け」「自分にとって都合がいいか悪いか」です。
自己愛性パーソナリティ障害の子育ては、虐待が標準です。
過干渉・過保護orネグレクト、そして情緒的ネグレクトは多くの場合セットでしょう。
心が育ってない人に情緒を育むことは難しいです。
虐待の連鎖の仕組み
私の父親はおそらく自己愛性パーソナリティ障害でしょう。
言うことを聞かなければ怒鳴られました。些細なミスも怒鳴られました。進路の希望も職業の希望も、怒鳴られました。そして、言うことを聞かないと無視されるのがセットです。
怒鳴るのも無視も、心理的虐待です。
私の兄も同様に育てられていました。
そして思春期になる頃には兄も私のことを完全無視するようになり、私の存在がそこにいるだけで不機嫌を顕にして大きな音を立て、ドアや壁に穴を開け、物を破壊しました。私の所有物を勝手に処分し、換金し懐に入れました。私の作品やランドセルはナイフで切りました。
こういった行為は、今思い返せば異常でしたが、ずっとこの環境で生まれ育った私にとってはこれらのことをされることが「普通」でした。
兄もおそらく自己愛性パーソナリティ障害でしょう。
もう人生が半分過ぎたくらいですが、ひきこもりニートです。いつまでも就職しない兄に「何かやりたいことないの?」と母がきいたりしていましたが、「ん…」と言うだけでした。
兄は両親に「素直な子」「優しい子」と言われていました。妹に暴力をふるっているのに、です。
兄は私をサンドバッグにしながらも、親の言いなりでした。高校も大学も、彼の実力で行けそうなところを父親が決めました。
母はこわかったのでしょう。私のことを自分勝手でわがまま、自分の好きなことしかしない子、というスケープゴート(生贄)にすることで「平和な家族」を維持していました。そして、成績の振るわない兄に比較して神童扱いされていた私を「あんたはいいわよね」と言っていました。また、「二十歳過ぎればただの人なんだから」、「ひけらかすんじゃない」とも。(もちろん神童扱いされていたなんていうのは子供の頃の話です。貴重な若い時期に10年以上精神が健康ではなかったので社会的成功は何も成していません)。
虐待は責任をなすりつけやすい存在に集中します。
私は家族の中で一番年下で非力でしたし、暴力でねじ伏せることが可能だったのでスケープゴートとして適任でした。
兄は親の言いなりになり、人格形成の不全さを受け継ぎました。
そして、兄よりも周囲に評価されることが多かった妹の価値を値引くことで優越感を満たしていたのでしょう。
今思えばですが、自己愛性パーソナリティ障害の行動パターンそのままです。
自己愛性パーソナリティ障害は、支配を完了した相手を自己愛性パーソナリティ障害にします。そして、支配が完了しなかった人間は共依存、被害者体質になる、というのが家族を見てきた私の持論です。
虐待の原因
自己愛性パーソナリティ障害は、障害者です。
症状のない精神病者などとも言われますが、自己愛性パーソナリティ障害の人たちと何度も交流を重ねてきて思うのは、この虐待こそが症状なのだと思います。
自己愛性パーソナリティ障害の虐待は、心の境界線(パウンダリー)が不在であること、投影(自分が感じていることを相手が感じていることにすること)、オール・オア・ナッシング(全か無か思考、スプリッティング)などが原因となっているケースが多いです。
そして、自己愛性パーソナリティ障害は虐待を虐待だと認識することすらできないでしょう。
彼らは根本的に自分が無いので、自分にとっての根幹に関わる「正義」を貫いているだけといった認識になります。
自己存在の不安定さを補っている「正義」を押し付けるといったカタチで、自分の不安を相手に投影して支配しているんですね。
虐待していた親が「躾のつもりだった」と言うことがよくありますが、認知が歪んでいるので実際そう感じているのだと思います。
自己愛性パーソナリティ障害は自分にとって不都合なことは認識することができません。存在が揺らぐ程のストレスを感じるため、防衛機制によって無かったことにします。
例え話として我が家の話を書きます。
「思いやり」を持ち出して父が私に注意したとき、同じことを父親が母親にやっていたので「なんでお父さんは思いやりについて話しているのに同じことをやっているの?」と質問したら父親は激昂し怒鳴り散らしました。言ってることは支離滅裂なのですが、恐怖で身が縮こまるので何も言い返せなくなりました。
事実が目の前にあったところで、それを受け入れることができないから障害なんですね。
私に対する過干渉も「心配だから」と言っていました。「心配だから支配していい。思い通りにしていい。思い通りにならないお前が悪い。」という思考です。
人と人の境界線はいつも存在しません。
そして、自分の都合の悪いことは認識できません。
これらが症状であり、虐待の原因です。
自己愛性パーソナリティ障害は一人の人間を一人の別の人間として認識することができません。信用することもできません。それは、「その能力がない」という意味で障害者なんですね。
ちなみに私が結婚して家を出たら、私は父親にとって「外の人」になりました。「旦那さんに迷惑をかけるんじゃない」と言っていました。「女にとって一番の幸せは子孫繁栄だ」とも。
自己愛性パーソナリティ障害の人間関係は境界線が無いというのが基本ですが、自己愛性パーソナリティ障害の認識する人間関係の外側にいる人間は「外面」の対象です。
「~であるべき」で構成されたパターンをなぞるだけの関係のときは癒着(自分と相手の境目が無くなりくっついてしまう状態)が起こりづらいです。
また、私のケースは自身が「外の人」になったという点もそうですが、「女はこうするべき」というひとつの型に納まったというのが、結果的に父にとっては「思い通りになった状態」なので落ち着いたのでしょう。
虐待という「行為」の根絶のために
自己愛性パーソナリティ障害は外面はいいです。外面のままのコミュニケーションであれば、大きな問題は起こりません。
モラルハラスメントを行うのは自己愛性パーソナリティ障害だけではありません。変質的に執着する、といった行為は自己愛性パーソナリティ障害や境界性パーソナリティ障害に多いですが、モラルハラスメント自体は社会の空気によって「許されていればいるほど」蔓延します。
ですので、社会全体がモラルハラスメントをはじめとする各種ハラスメントやレイシズムなど、「不適切な関わり方」について知ることは有毒な関係を構築しにくくなるメリットがあります。
自己愛性パーソナリティ障害は「自分が正しい・優れている」ことに固執しますので、周囲の空気というのはとても大切です。
害になるコミュニケーションを社会全体で排除し、自己愛性パーソナリティ障害の人が抱える不全感を補える何かが虐待行為以外にあれば、この障害の破壊力は随分と軽減されるのではないでしょうか。
私の父は社会的成功をおさめています。
ワーカーホリックでしたから、殆どずっと仕事をしていました。そのことは彼の成功体験として大きなことだと思います。ただ、その成功体験をもって、子ども達を「自分と同じ」にしようとしました。
父は自分をモノのように見ており、自分の価値を仕事に見出していましたので、子供のことも優秀なモノにしようとしていました。
「仕事ができる自分」という価値に依存しているだけであれば、おそらくそこまで有毒ではなかったのではないかとも思います。
自己愛性パーソナリティ障害は依存症です。
「自分は価値があるのだと感じる」ことに依存しています。何か相対的に優位な能力があれば、それに依存しやすい状態にあります。
社会的成功をおさめている人に自己愛性パーソナリティ障害的な傾向がある、ということが少なくありませんが、内発的動機づけよりも外発的動機づけに依存せざるを得ない自己愛性パーソナリティ障害の心理的な問題と密接に繋がっているのではないでしょうか。
日本の病理として、人をモノのように捉えるという傾向があります。
自己愛性パーソナリティ障害、その傾向を持った人、共依存が蔓延している背景には、こういった文化的な背景もあるのではないかと思います。
日本の教育は本人がやりたいと思ったかどうか、ということは重視しないままに評価を下すという教育体系です。体育や音楽を始めとして、人の能力には生まれつきの部分でかなり大きな差がありますが、こういった個人差がありながらも「本人の意思とは無関係に」優劣をジャッジします。そしてできなければ体育などでは人からお荷物扱いをされることは決して珍しいことではありません。
人生を楽しみながら健康に生きることを推進するという目的であれば、身体を動かすこと自体に喜びを見いだせるようなアプローチが有効ですが、日本の教育システムは残念ながらそのようになっていません。
熱血指導などと称したパワハラは今もまだ日常です。
本人が何を感じ、何を欲しているのかを度外視して「優秀なモノであれ」とするメッセージは、日本に生きているとあちこちで触れるメッセージです。
「世界に一つだけの花」が昔大ヒットしましたが、これが「あたりまえじゃん」とならないということ、これが「刺さる」ということ自体が、いかに我々の文化自体が自己愛性パーソナリティ障害的になっているのか、ということです。
長い文章をお読みいただいてありがとうございます。
私は虐待の被害者として、そして自己愛性パーソナリティ障害の被害者として、この不幸な連鎖がなくなればいいと思っています。
この文章を読んでくださった皆様ひとりひとりが、「人権とはなにか」「幸せとはなにか」ということを考え、より心豊かな人生を歩んでいっていただきたいです。
かつて、私は親を恨み、自己愛性パーソナリティ障害の加害者を恨んできました。
でも今になってやっと、幼い、幼すぎる彼ら、彼女らの病理について思いを馳せると、そうさせる社会のあり方自体が自己愛性パーソナリティ障害なんじゃないかと思うようになっています。
実際、政治の世界も、いわゆる名声がある世界も、自己愛性パーソナリティ障害のような行動パターンがあちこちに蔓延しています。
不適切なコミュニケーションを許さない空気を作っていくことに、是非読者の皆様もご協力していただければと願っています。どうぞよろしくお願い致します。
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こちらは過干渉が原因ではなく過保護や過度な甘やかしが原因となったケースについて書いた記事です↓
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コメント
まさに私の夫がナルさんのお父さんと全く同じ行動をするので、やっぱりそうだよな..と思いました。書かれていること全部当てはまります。子どもの共感性の低さ(優越感・被害者意識)が気になって、いろいろ調べていてこのサイトにたどり着いたのですが、子どもに関しては遺伝的な要素もありつつ親の育て方が大きく関わるようなので、私が気をつけなければと思いました。
人を人として尊重して接する、ということが自己愛性パーソナリティ障害になる環境下では欠けています。
日本自体の人権意識の低さもあいまって、なかなかこの「おかしさ」がおかしいこととして浸透しきらないのが歯がゆいですが…。
父親に自己愛傾向がありながら、片方の親がまともで大丈夫っだったケースは知っています。
応援しています。