部活こそ青春というイメージがきっと日本には根付いていると思う。
「君は中学生(高校生?)」の後に続く「部活は何をやっているの?」は一種の定番挨拶だ。
■ようやく部活がブラックであると認識されてきた
関わっていたことがある人間から言わせていただくと今さら感が半端ないわけだが、不景気の今は「安定の職業」というだけで教員が叩かれる風潮があることも、「部活があるのもはじめからわかっていたことだろうが!」「部活がやりたくて教師になったやつもいるだろうが!」という声があることも知ってはいる。
だが、私個人は部活は無くなってしまえばいいと思っている。
その立場から話をしていきたい。(下に続く)
■教師の過重労働以外の問題点
部活顧問とその家族
問題は教師の過重労働だけではない。
その家族の犠牲のもとに教師の異常な労働時間が成り立っていることも知っていてほしい。
学校の部活で顧問をやっている人間の家族は、家族の時間が無い。
教員の出勤時間は当然子どもたちよりも早い。そして、帰宅する時間は子どもたちより遅い。
7時前に家を出て、夜9時に家に帰ってきて、土日は部活。
…となると、教員の休みが無いばかりか家族の時間も無い。
教員夫婦の子どもが荒れやすいとは一部では常識のように言われているらしいが、実際自分の子どもと接する時間が少なすぎる。むしろ、ほぼ無い。
学校の中に入った部活という特殊性
そして「部活」という、学校生活の延長線上である特殊さによって引き起こされる弊害についても考えいきたい。
甲子園には育てる学年と捨て駒のような扱いを受ける学年が存在する。
それは3年間という決められた枠組みの中で結果を出すためにやむを得ないこととして扱われている。部活にも大人の事情というものがあり、特に甲子園には莫大な利権が絡んでいるからだ。
試合に出られる人数に制限がある中で、経験を積ませて3年間で育て上げて3年目で結果を出すことを期待される学年がいるとすると、その影で育てる対象にならない学年は試合にはほぼ出られないということが出てくる。
上級生なったら試合に出られるとか、そういうシステムではそもそもないのだ。
人格形成や情操教育などを部活に期待しながら、中身は全然異なってしまっている現実がある。
勝てるかどうか、学校の宣伝になるか、儲かるかどうか…そういうものが既に部活にははびこっている。
また、公立学校においても私学のような企業的な視点とはまた違った問題が生じてくる。
「部活」を志望理由にする子どもがいる場合、指導者である顧問の転勤問題がついてくる。
公務員は数年で転勤することになっている(一部特例が適用される場合もあるが)。
指導を受けたいと思う先生を追いかけて入学しても突然転勤ということが起こりうるのが今のシステムだ。
こういった事情を考えていると、どうして「学校の部活」である必要があるのだろうか?と思えてくる。自由に指導者を選べて、学年を超えて切磋琢磨できて、合わなければ移動することもできるサークル的な環境の方がむしろ人格形成としても健全ではないだろうか。
部活での活躍が学校での評価に関係してくること、学校と部活の人間関係が変わらないという閉鎖的な環境で生じる問題…など、学校特有の不健全さというものが部活にはある。
学校の常識は世間の非常識。
学校が終わったら人はいきなり自由になる。
だが、その自由をうまく泳げる訓練を学校では出来ていない。むしろ部活という特殊さが足を引っ張っているようにすら思えたりする。世の中はもっと流動的だし、付き合う人も選べる。理不尽なこともあるけれど、声をあげられない環境になれるのは危険だ。
長時間指導をする顧問は素人である
コーチを雇うなりしない限り、ほぼ指導する顧問は素人である可能性が高い。中にはプロを経験してから学校の先生になるケースもあるが少ないのが現状。
3年間やれば数千時間におよぶ練習をプロの現場も知らない学校の先生がみているのがむしろ不思議でならない。
スポーツや芸術の分野では、一線にはいけなかったがスキルを持っている人材がたくさんいる。また、引退した人が第二の人生に就職をどうしようか?となるケースも多い。是非そういう人達に学校という「場所」だけを開放してもらって新しい活動をしてもらいたいと個人的には思う。
■親目線で子どもの教育環境をよりよくする方向に考えたい
「部活の顧問が無くなったら教師が楽すぎる!」という声もあるが(=「羨ましい」?)、現状、学校の部活には様々な問題が内包されている。教師が楽かどうかという視点ではなく、親としてはよりよい教育環境になることを望む。
教師が羨ましい職業でないと教育の質は下がると思う。
私自身も一時期は教壇に立っていたことがあったので教師は所詮人間だと思っているが、質の高い競争のある中で選ばれた人になってもらいたい。
「教師なんか」といわれる職業になってはいけないと思う。