自己愛性パーソナリティ障害は「普通」を飛び越える

Pocket

自己愛者は「普通は」「常識的には」「みんなは」などの言葉を多用します。

ところが、それらは他人をコントロールするためにそう言っているだけであり、自己愛者本人は「普通そんなことしないだろ」を軽く飛び越えた行動を平気でとります。

あるいは「平気でとれてしまいます」という表現の方が合致しているかもしれません。

情緒の健全な発達を遂げていないからとれる行動

Sponsored Link
 

健康的な情緒の発達を遂げた人であれば、罪悪感があってできないことがあります。

何の罪もない人をいきなり殴るなんて普通はできません。

もちろん、親を殺された恨みなどがあれば相手を殺したいと思うこともあるでしょうが。

ところが自己愛者の場合、情というもの自体の発達に問題があるため、このような「何か人に危害を与えたりする行為」に対して、罪悪感がその抑止力となることがありません。

自己愛者にとって抑止力となっているのはデメリットです。

犯罪であればそのルールを犯したことによる社会的なデメリットが存在します。ところが、「普通そんなことしないよね」という、心のある人達が共有している暗黙のルールには明確なデメリットが存在しません。

特に現代では引っ越しすることも容易になったため、村の中で「アイツはヤバいから関わるな」などと村八分になるというリスクもありません。ただコミュニティを変えればいいだけです。

そこで自己愛者は自己利益追求のために「普通そんなことしないね」という行動をとり続けます。もし思い通りにいかなくなったり立場や都合が悪くなれば付き合う人を変える・コミュニティを変えるという生き方である意味適応しています。(これは中年の私が見ている周囲の自己愛者の傾向です。老年になり行動力が落ちた時の彼・彼女らがどのようになっているのか、というのはまだわかりません。)

自己愛者にとっての利益とは何か

Sponsored Link
 

心が健康な人の感じる利益と自己愛者の感じる利益にはズレがあります。

心が健康な人にとっての人生の価値とは、自分が自分らしく生きることができること、自分らしく生きられる仲間と共に苦楽を共にできること、です。(もちろん衣食住に不自由しないでいられるとありがたいという土台はありますが。)

ところが、自己愛者にとっての人生の価値はそうではありません。

そもそも自己愛が健全ではないということは、ありのままの自分というものがありません。自我同一性を獲得していないので、自分も不確かな存在であり、もちろん他人も不確かな存在なのです。

自分が自分らしく生きることを求めることができないのです。そして、自分らしく生きて情緒的交流をしながら人と関わっていきたいと思える心を持っていないのです。

Sponsored Link
 

そういった意味で、自己愛者は人生に価値を感じることができるのか?ということがそもそもの疑問ですが、実際の行動となって表れているのは獲得しそこなった自我同一性を補えるような材料を集めることに終始している、という点です。

そしてその「材料」は、人からの関心、地位であったり名声であったりもするので、社会的には一見すると適応しているかのように見えてしまうという現実があります。この現実が、「普通そんなことしないよね」というパワハラやセクハラが横行する組織を作り上げていきます。

自己愛者は、言ってしまえば人間的な情緒を持たず、より動物的な欲で生きています。人間は本来社会的な動物ですが、社会的な動物として健康的な関係を築ける能力を獲得しそこなっているわけです。

なぜ自己愛者本人は「普通は」と言うのか?

Sponsored Link
 

冒頭で記載しましたが、自己愛者はよく「普通は」などと言いながら人の行動を自己愛者にとって都合がいいようにコントロールしようとします。

それは自己愛者に自分が無いからです。

自分の意見として「私はこう思う」と言えばそこに責任が発生します。そしてもちろん相手自身も「私はこう思う」ということが起こります。別の個体だからです。

自己愛者にとっては自分も不確かな存在ですから、相手の存在も別の個体として認識することができません。ましてや心をもった一人の人間として認識することができません。

自己愛者は責任をとれません。責任という概念を持っていない、とも言えるでしょう。責任というのは社会的な繋がりがあるからこそ生まれる概念だからです。

「繋がっていない」ので、責任が存在しない世界で生きているのです。

コントロールされそうになった時に

Sponsored Link
 

自己愛者があなたを脱価値化しようとする時、自己愛者が自らを飾り立てて価値を示そうとする時、彼・彼女らがしていることは、「自分とは何か」というものを必死で定義しようとする行為です。

「自分は価値のある、こういう存在である。」と。

しかしそれは、カタチにならなかったものを必死でそれらしく繕おうとしているに過ぎません。必死で砂の城を作り、本物の城だと思い込もうとしているのです。

自己愛者は人と関わっていたとしても、「一人」です。

あなたに寄生することで人間の姿を得ようとしますが、自己愛者の口から出てくる言葉には何の意味もありません。

あなたと同じ心は持っていません。

気を確かに持ってくださいね。

Sponsored Link
 

コメント

  1. 俊行 野間 より:

    今回、初めて、パーソナリティ障害と言う言葉に更に詳しく、ふれさせて頂きました。
    社会的ひきこもりやその裏には、さまざまな、要因があるのだなと、知れる機会でした。
    また、もう少しずつ勉強できればと思います。