秋といえば、運動会。 最近は5月にやるところもありますが、皆様の地域はどちらでしょうか?
先日、「運動会なんてなくなればいい」という趣旨の記事がSNSで流れてきました。
私はというと運動が苦手な人間だったので「超いいね!」を押してしまったのですが(笑)、きっと多くの人は「何言ってるの?」でしょうね。
実際シェアしたら誰も何も反応なしです。そんなものですね。
そろそろ発言が自由過ぎて嫌われるかなと思ったりもしますが(笑)、ここは私のブログなので好き勝手に書かせていただきます。
学校の先生や保護者の方にも是非考えていただきたいです。
■運動が出来ないことは、学校…特に小学校におけるヒエラルキーにとても大きな影響をあたえる
学校のヒエラルキーってだいたい
・小学校→運動出来るかどうか
・中学校→イケてるかイケてないか(容姿・ファッション)
・高校→学校の偏差値によって、上記+成績がいいか悪いかor特技を有しているかどうか
って感じでしょうか。
そう。これは一種の迫害を経験した人でないと「運動会なんてなくなっちまえ!!」という心の叫びはわかりません。
「ゲッ!お前と同じチームかよ!」
「こんなことも出来ないの?」
「お前にだけは絶対に負けたくないw」
勝つか負けるか、出来るか出来ないか、優秀かそうでないか…そういうことが明るみになる体育の授業。ましてやチームに個人の出来なさ加減が多大な影響を与えてしまう場面というのは悲惨です。
「コイツが足を引っ張っている」という紛れもない事実はチームメイトを苛立たせます。そしてそれが原因で心無い言葉が容赦なく浴びせられることが少なくありません。
SNSで発信していた方は、それがきっかけでいじめに発展し不登校になった子の話を書いてました。 不思議ではないと、私も思います。
私は長らく、自分は運動が嫌いだと思っていました。 人にバカにされ、人に厄介者扱いをされる原因。それが運動でした。
「子どもは外で身体を動かして遊ぶことがいいこと」という謎の価値観で、本来は自由のはずの休み時間に外遊びを同調圧力で強要される苦痛。
おにごっこで一番先につかまって、延々と走らなければならない苦痛。
運動が苦痛とセットになっていました。
「もうバカにされたくない…」そう思った私は、中学校であえて運動部に入りました。
家でも自主トレーニングをするくらい、学校外のサークルにも所属するくらい、かなり努力しました。 結果、「普通レベル」くらいになりました。 超努力して「普通」です。
でも、バカにされることはなくなりました。
そして、「身体を動かすこと自体は楽しいことなんだな」と知りました。(下に続く)
■不要な劣等感
私は劣等感を払拭したくて以上のような行動をとりましたが、そもそもこの劣等感ってなんだったんでしょうか?
大人になった今はとても疑問に思います。
別に逆上がりが出来なくても何も困りません。 かけっこが遅くても何も困りません。 こういう痛烈な不要な劣等感を育まれるような教育ってどうなんでしょう。
「身体を動かすこと自体は楽しい」ということにすら気づかず、運動が嫌いになっていくようなアプローチってどうなんでしょう。
考えてほしいのです。
「勝つことがいいこと」という盛り上がりの中で、「負けることが悪いこと」という価値観が刷り込まれていきます。
負けることって悪いことなんでしょうか?…誰にだって得手不得手はありますよね。
苦手なことって悪いことなんでしょうか?…苦手なことが無い人なんていますか?
苦手な子が劣等感を抱えることなく、チャレンジすること自体は楽しいと感じられるようなアプローチって無いのでしょうか?
学校の勉強で出来が悪くても人に迷惑をかけることはないのでいじめの対象にはあまりなりません。
でも体育はそうではありません。
大縄跳びで何回連続で出来るか!というチャレンジをした時、一人のミスが全体のミスになります。
このミスをした子、人よりもたくさん頑張ってもなかなか出来ない子にまわりと同じ責任を負わせることってすごく酷だと思うのです。
私は教育学部出身だったので、学校の先生とたくさん繋がっています。
でも、この話題は見事に皆さんノーリアクションでした。 正直ちょっとショックだったんですね。
多数派が信じる「正しい価値観」に異を唱えることって、多数派の人に出来ることが出来ない子が感じることに通じるところがあります。
「何言ってんのコイツ?」と、迫害の対象になりやすいということです。
■少数派の扱われ方に人権意識の差が出る
私はそう思っています。
この記事を読んでくださった方、是非、考えてみてください。
もっとその人が笑顔で過ごせるアプローチが無いのかなと。