「我慢は報われる」と思いたいですが、現実はそうでもありません。
よくない人間関係で我慢する、ということはそれがただ当たり前になるということです。
人は良くも悪くも慣れる~癖を自覚しよう~
人は良くも悪くも慣れます。
国によって習慣は全く異なります。自分の生まれ育ったところから別のところにいくと慣れるまで大変ですよね。ですが現地の人はスムーズに生活しています。幼少期から慣れてきたものだからです。食べ物の味の好みも生まれ育った環境で異なるように、人は習慣にしたものになじんでいきます。
アダルトチルドレンがよく抱えている学習性無力感も、いわば慣れです。
自分の意志を尊重されないことに慣れ、望んでも無駄であると学習し、また虐げられても反抗することが無駄であると学習し、その環境にある意味適応した結果として不適切な人間関係にもとどまる癖を持ちます。
それとは対照的に、あなたが上記のような悪環境に慣れたことによってついている我慢癖に乗じて、あなたに我慢させるような関わり方ばかりする人がいます。
あなたの我慢に乗っかる人は、あなたが我慢しているなどとは考えません。
ただ自分勝手で搾取的な行動をその人の習慣として、当たり前のこととして繰り返すだけです。
「常識的に考えてわかるでしょ?私はずっと我慢していたの!!」
なんて言葉は届きません。
「え?我慢??我慢なんてさせてないよ。あなたが好きでやっていたんでしょ?」
となるだけです。
我慢癖を持っている人は、他者のために我慢することを当たり前だと思っている節がありますが、それは当たり前ではありません。ですので残念ながら、周囲にもなぜ我慢が必要な関係を続けているのか理解されないため、好きでやっていると思われがちです。
我慢しなきゃ付き合えないような人とは「この人とは合わない」と思って離れるのが自他境界を尊重されて育った人の普通です。
あなたがいくら我慢しても、それは「当たり前のこと」「好きでやっていること」として認識されてしまいます。
テイカーは我慢する人から搾取する
テイカー(もらうだけの人)は、奪っても大丈夫な相手を選び、搾取します。
我慢しない人、関係を切られる人には逃げられてしまいますので、結果、テイカーの前には我慢する人が残ります。
そして、よそで逃げられたテイカーも我慢する人が相手ならば「この人なら逃げていかない」わけですから、我慢する人の周りにはあちこちからテイカーが集まってくることすらあります。
いわゆる被害者体質ですが、この我慢癖を持っている人は自分よりも他人を優先してしまうので、自分の心の声を無視しては察して相手の要望に応えてしまい、気づけばいつも何かを差し出している、何かを奪われている関係になります。
そうしてしばらくすると、愚痴の掃きだめ、都合の良い人、格下認定扱い…その一方で自分の話は大したことないこととして軽んじられる関係に疲弊していき、「もう無理」とフェードアウト(もしくはカットアウト)…。
こんな関係ばかり続けるのは嫌ですよね?
人間関係リセット症候群などという言葉がありますが、その中にはこうした良くない人間関係ばかりを繰り返しては関係を清算することを繰り返している被害者体質の人が混ざっています。
何のための我慢なのか?我慢は戦略的に
人生は習慣で変わりますので、癖というのは人生に多大なる影響を及ぼします。
自分の癖を自覚して修正することは、習慣を変えること、そして人生を変えることに繋がります。
もちろん全ての我慢が無駄、というわけではありません。
我慢、というよりも辛抱というニュアンスの方が私は好きですが(我慢は仏教では高慢の意味を持ちます)、その先に得られるものがあるのかどうか?という視点を持った時に、ある、と答えられるものの時は我慢・辛抱することに意味はあるでしょう。
ただ、通常、人間関係における我慢は我慢を当たり前とした関係が続きます。
それは関係性が支配と被支配の関係で繋がり・継続しているからです。その力関係が変わった時、その関係はそもそも維持することが難しくなります。テイカーは基本的に人を人と思っていないので、利用できるから一緒にいるだけです。利用できなくなったら利用できるようにコントロールするか、離れるかだけです。なにせテイカーですから。人に与えることはできません。
理不尽な我慢をしなくていい人間関係は存在します。
この人と一緒にいるといつも我慢している、という関係性は、あなたを幸せにしない人間関係です。
「合わない」ことはあります。
「我慢して合わせない」ことは許されています。
我慢して他者に合わせることを当然として生きてきた人はそのことを忘れてしまいますが、誰とでも仲良くする必要はありません。
付き合う人は選びましょう。